釣りタイトルだと思ってるのは少数派
最近、職場で友達いないいじりをされます。自分はそのたびハラスメントを主張するという絶妙につまらない返しを繰り返しているので、そろそろ飽きてくれるとは思うのですがそれは置いておくとして、友達いないと言われることに心のひっかかりが無くなったことには、自分は少し大人になったんじゃないかと思いました。
実は、2、3年くらい前までは、思わず見栄はったりしていました。言ってくる人、言われ方によっては「俺が退屈な人間だと思われてる」と感じて苛立ったりしたものです。
今は「多数派は俺のことを退屈だと思っている、残念ながらそれは事実だ」として納得してます。つまり、自分は自分のことを退屈だと思ってませんが、多数の人にとって退屈な人間だってことはそうであり、そう思われても仕方のない人間ではある、というのは受け入れてるということです。もちろん、友達いない=退屈な人間、なんて解釈は気質の話など無視したかなり偏りがある一部の意見であることはわかってます。まあ自分が思う友達いない、の一番悪意がある解釈がそれということで。
ところで、多数派って分裂病の人が使う言葉っぽくて好きです。ごめんなさい病気のひと馬鹿にするなんて、良くないですね。俺はそんなつもりはないですけど、多数派はすぐに最低だ、配慮しろ、って電波で俺のことを攻撃してくるんですよ。
学校以外で友達出来たことないよね
思い返すと学校以外でお友達ができたことがないのです。塾とか予備校とか中学受験の時なんかはほぼ毎日通ってきたような人間なので、これってなかなかのものなんじゃないでしょうか。偏差値でいうと早慶くらいの友達つくれなさじゃないですか。もちろん会社に入って友達出来たことないですよ。どうですか?学校でいたことを加味するとマーチですかね?
その場その場で、仲良くなった(と思ってる)人とは出会うのですが、それっきりです。
結構後悔したりしてます。もちろんそれほど仲良くなかったから、ということもありますが「お互いにとって楽しい話ができる(確信)」という笑いのツボがおなじ人もいました。そういう人と話して得られる体験はその人だけなので虚しいです。
別れ際でかなり失敗したと思うことがそんな人を含めて、3度ほどあります。これは無念です。
友達ほしいか?って改まって聞かれると首をかしげてしまいますが、彼らともう一度会ってお話ししたいかと問われると当然のようにイエスです。これは心のひっかかりで、しこりです。
だからつまり、大切なことは「かー俺友達少ねーけど気にしねーわ、大人だから気にしねーわー、かー」じゃなくて、友達でありたい人に「ちょっとそこのジャンクガレッジ食べに行きましょうよ(加藤純一風に)」って誘うことなんですよ。
自分にとっての少数派にきちんと電波を送らないといけないってことなんだ。
「ジャンクガレッジはまぜそば全増しが無難ですよ」ってね