0.5人月

人生と仕事が伸び悩んでるWeb系のおじさん

晩年の作品

生涯かけて小説を書いてきた作家の晩年の作品は、あざやかだから、読むと寧ろ何を主張したいのかが見えにくかったりする。

例えば、ディックだ。チンポじゃなくて、SF作家のディックだ。生活費がため生々しいくらい小説家であった彼の晩年の作品。『流れよ我が涙、と警官は言った』この作品のストーリー展開はまごうことなきディック節ではあるのだが、ディック作品としては上手すぎる一品だ。この作品で味わうことができるあの現実崩壊感覚は、彼の作品のなかでも唯一無二といえるかもしれないが、いかんせん巧すぎて、ディックの良い意味でのクズさに気づけない。これだけ読んでも、なぜ彼がこの現実崩壊を描くのか、その作家の心根が響くことはないと思う。

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

今月、小松左京、という作家の2つの短編集『ゴルディアスの結び目』『地には平和を』を読んだ。小松左京の他の作品については、10年くらい前に『果てしなき流れの果て』を読んだことがある程度だった。その物語の印象は、人間ドラマとハードなSFが混ざった素晴らしい作品、という印象だ。中でもラストの美しさ、納得感は歴代読んでてきたSFの中でも随一といえる作品だった。

だから自分にとって、果てしなき流れの果てに、は「素晴らしい作品」だし、小松左京氏は、「名実ともに日本SF界の文豪」という印象だった。

ゴルディアスの結び目 (角川文庫)

ゴルディアスの結び目 (角川文庫)

 
地には平和を (角川文庫)

地には平和を (角川文庫)

 

だが、今月読んだ二つの短編には、中には処女作である「地には平和を」を筆頭に、著者のむき出しの言葉みたいなものがいくつもあり、得も言えぬ作者の思いを感じることができるのだ。小松左京という人間が、広大な宇宙の中の人間、畏怖の念すら抱くほど強大な科学技術の果てで人間はいかなるや、こういった問いを切に考えているということがひしひしと伝わってくる。

湧き上がるのは自分が本当に「果てしなき流れの果てに」を読めていたのだろうかという疑問と、小松左京は上手な作家、というそんな自分の淡白さ、洞察の浅さだった。

作家という職業文章家達は、晩年には文体が固まり、物語づくりになれて、自分の思想や主張を作品にきれいにのせることができるのかもしれない。それは多くの読者をひきつける素晴らしい作品にもなっていくかもしれない。

だが、なぜその作品はこうなっているのか、なぜ作家はこれを書いたのか、作品から真に作者の言葉や思想を読み込むには、若年の、ともすれば、「つたない」一品に触れることが、その助けになるはずだ。

そんなことをブログに書きながら、小松左京の著作の発行年を調べていくと、『地には平和を』の処女作の三年後に『果てしなき流れの果てに』があることに気づくのだった。